目次
こんにちは。
福島市出身のペン画家、安藤光です。
今回は、私が日々向き合っている制作について、
自分自身の思考を整理する意味も込めて書いてみようと思います。
作品の分類や制作手法、思考の背景、そしてなぜ私は「描き続けているのか」について、
できるだけ言葉にしてみます。
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自分の絵には、いくつかの種類がある
現在、私が描いている作品は、大きく分けて以下の3種類に分類できます。
① 単色線描画(モノクロの線だけで構成された作品)
ボールペンや万年筆など、1色のみの筆記具を使って、下書きなしに四角や丸などの図形を延々と描き重ねていくスタイルです。意図的なモチーフや構成は用いず、ひたすら反復することで画面を構築します。いわば「描く」という行為自体がテーマになっている作品です。

② 細密彩色画(線描画の図形を色で塗り分けた作品)
①で描いた線描画の図形を、カラーボールペンなどで1つずつ塗っていく手法です。色を使うとはいえ、ただ塗りつぶすのではなく、以下のようなルールを事前に設定して制作に臨んでいます。
- 使用する色を限定する
- 同じ色を隣接させない
- パターンの中に例外(不規則)を意識的に混在させる
自然界に見られる「規則の中の不規則性」──例えば木の葉の並び方や石の積み重なりのような、不完全な秩序。それが人間にとって癒しや安心をもたらすように、私の作品にもそういった構造を反映させています。

※使用画材によってはさらに分類できますが、
あくまで「大きく分けると」ということで・・
③ ガラスペン画(筆記具の性質を活かした偶発性の作品)

万年筆やボールペンとは違い、ガラスペンを使って描く作品群です。ガラスペンはその構造上、インクを数本の溝に保持して筆記します。たとえば2色のインクを吸い上げれば、筆記中に徐々に色が切り替わっていき、意図せず色がグラデーションになることもあります。
また、紙との接触角度によって線の太さや濃淡が変わったり、溝の使い方次第で思いがけない色が現れたりします。つまり、作者の制御を超えた「偶発性」が画面に介入することが前提になっており、私自身もその変化を受け入れながら描いています。
描くという行為と、「意図」を捨てるということ

私の制作は、あらかじめモチーフを決めて描くのではなく、「無意識の繰り返し」の中で現れてくる形に任せるスタイルです。特に単色線描画では、あえてイメージを持たずに、毎日少しずつ描き進めていきます。
左利きの私にとって、ペンと紙の接地角度は微妙にズレがあり、それが結果として濃淡や滲みを生み出す原因になります。紙の繊維、筆圧、指先からの油分、気温や湿度など、制作環境の些細な差異が、すべて画面に影響します。
人間の脳は、曖昧な形を見たときに「何か知っているもの」に当てはめようとする傾向があります(パレイドリア現象)。雲の形が動物に見える、木目が顔に見える──そんな錯覚です。私の制作は、そうした「意味づけの衝動」に抗う行為です。
「これは何か?」と問いたくなる欲望を裏切るように、ただ描く。その結果として生まれてくるのは、自然界に通底する「フラクタル構造(自己相似性)」を思わせるパターンです。
これは私が意図して設計したものではなく、むしろ意図を捨てたことで立ち上がってくるものです。
フラクタル構造への関心と、その根源

私は子どもの頃から、積み木を延々と積み上げたり、細かい模様を黙々と描いたりするのが好きでした。特に自然の中にある「繰り返されるけれど同じでない形」──木の枝の分かれ方、葉脈、水の流れ、山の稜線──に、言葉にならない魅力を感じてきました。
福島市という、自然と都市の狭間のような場所で育ったことで、日常的にそうした自然の造形美に触れていたことも大きな要因かもしれません。
自然界に存在するフラクタル構造には、人間が安心や癒しを覚える不思議な力があります。それはきっと、まだ私たちが自然と共に生きていた頃の記憶が、遺伝子に刻まれているからではないかと感じています。
「意味を求めず描く」ということの意味
私は美大出身でもなく、絵の技術を専門的に学んだこともありません。
ですが、十数年、自分なりに描き続けてきました。
そして2013年、大切な親友を突然亡くしたことをきっかけに、
「悔いのない人生を生きたい」と強く思うようになり、
本格的に画家として活動を始めました。
私の描く行為は、「意味のない反復」を肯定することでもあります。
成果や効率、意味ばかりを追い求める社会に対して、静かに抵抗しているのかもしれません。
無心で線を引き、色を塗る。
その行為の積み重ねの先に、私自身がまだ言葉にできない何かが、かすかに立ち現れてくる。
それを信じて、これからも描き続けていこうと思っています。品に取り入れています。
おわりに
まだまだ自分が描いているものを完全に言語化できているとは言えません。けれど、この記事を通して、少しでも私の作品に込められた背景や考え方が伝わったなら幸いです。
今後も各地で展示を行っていく予定です。もし原画を見る機会がありましたら、今回の話を思い出しながら観ていただけたら嬉しく思います。
それでは、また。