作品を言語化しない作家が抱える落とし穴とは?

はじめに:「なぜこの作品を?」は避けて通れない

作品を発表したときに、
「この作品って、何を伝えたいのですか?」
「なぜこのテーマなんですか?」と問われて、
言葉に詰まった経験はありませんか?

作家にとって、「なぜ描いたのか」は一番難しい問い。
なぜなら多くの場合、制作中は自分でも理由が分かっていないからです。

描いているうちに気づいた
何を描きたいかは終わった後にわかった
人との対話の中でようやく整理できた

そんなことは、むしろ自然です。
それでも今、作家が**言語化を避けることは
「表現を閉じる行為」**とみなされる時代に入っています。

関連記事:
読み手に伝わる!作品解説の書き方と例文
画家のための作品テーマの書き方・考え方

そもそも「まだ答えがない」こともある

制作の動機は、衝動・違和感・憧れ・焦燥──とにかく「言葉以前」の感覚で始まることが多い。
だから、最初から明快な説明なんてできないのが当然です。

それでも、「作品の意味を教えてください」と問われるのはなぜか?

それは、鑑賞者の多くが「納得したい」「安心したい」という欲求を持っているから
言葉で理由を知ることで、作品を「理解できた」と思いたいのです。

この構造を知らずに、無理に説得力を持たせようとすると、
言葉が作品から乖離し、「それっぽい説明」だけが残ることもあります。

わからないまま放置することで見えてくる

すぐに言葉にせず、「わからないまま置いておく」ことも大切です。

時間をかけて向き合う中で、
感覚が整理され、
別の形で意味が立ち上がってくることがあります。

これは作家自身にとっても、自己との対話プロセスです。

ただし、それでもいつかは「なぜ?」に向き合わざるを得ないタイミングが来ます。

それが、現代アートという枠の中で発表している限り、避けられないルールだからです。

あなたが現代アートのフィールドにいるなら

いまアートを制作し、展示し、販売し、SNSに投稿している。
それだけで、あなたの作品は現代アートという制度の中にあると見なされます。

この制度の中では、以下のような問いが常に前提となります:

  • なぜこの作品をつくる必要があったのか?
  • あなたと社会の関係性は?
  • その関係がどうやってこの作品になったのか?

これらに答えられない=評価の俎上にすら乗らないという現実があります。

言語化は“差別化”の手段になる

「抽象表現」や「自然」「感情」「記憶」といったテーマは、
現代の多くの作家が扱う普遍的なモチーフです。
それだけに、見た目だけでは違いが伝わりづらい場面もあります。

そうしたとき、作家がどう向き合い、どう意味づけたかを言葉で語れることが、
作品の個性や深みをより伝える助けになります。

そこで活きるのが、**その作家だけが持っている「語り」**です。

同じように見える作品でも、「なぜそうしたか」が語れると、ぐっと印象が深まる。

作家として印象に残るために、言語化は強力な差別化手段となります。

言語化は自己理解と制作の成長を促す

「なぜ描いてるのか分からないまま進んでしまう」
「テーマがブレる」「次の作品で迷う」

こういった悩みは、言語化することで整理されていくことが多いです。

  • よく使っている色や形に意味があることに気づく
  • 自分が繰り返し描いている感情のパターンが見えてくる
  • 社会との関わり方のスタンスが明確になる

これらはすべて、**“言葉にしてみたからこそ分かること”**です。

キュレーター・ギャラリーはまず言葉を見る

ギャラリーやアートフェアに応募するとき、まず見られるのはポートフォリオの言葉の部分です。

  • この作家は何を考えているのか?
  • この作品はどんな視点から出てきたのか?

言語化できていない作品は、「コンセプトが薄い」「自覚的でない」とみなされ、
選ばれる可能性が低くなります。

ステートメントは“作品の信用”を担保するものでもある。

「意味を求められたとき」に備える

購入希望者、インタビュー、トークイベント、アートフェア──
あらゆる場面で「なぜこの作品を?」と聞かれる時代です。

そのとき、しどろもどろになるか、
自分の言葉でシンプルに伝えられるかは、信頼性に直結します。

あなたの作品が欲しいと思ったとき、言葉で補足があれば“迷いが確信に変わる”。

言語化は“納得”させるためじゃない、“共有”するための道具

ここで誤解してほしくないのは、
言語化=論理的に納得させることではないという点です。

  • 自分でも完全には分かっていない
  • 感覚的だけど、その感覚は確かにある
  • 「何かがズレている」という違和感から描いた

そういった「言葉になりきらないもの」を言葉に近づけようとする過程こそが、
作家としての誠実さです。

そして、その過程を知ることで、鑑賞者も作品との関係性が深まっていきます。

言語化ができないことは「誠実」ではない

よく、「自分の作品は説明しない。見て感じてもらえばいい」と言う人がいます。

その気持ちは分かります。
でも、それが「言語化から逃げているだけ」なら、それは作家として不誠実です。

特に、「売れたい・評価されたい」と思っているなら、
言語化しないことは、自分でチャンスを潰しているのと同じです。

私もペンで抽象画をかいているので言語化するのには何年もかかりました。
今後もアップデートしていくつもりですが、「いったい自分は何を描いているのか」を自問してきました。
ようやく意味付けする人の知覚や社会に抗って描いていることを言葉に出来たように思います。
安藤光作品コンセプトはこちら

まとめ|作品を語れる作家が、信頼される時代へ

言語化しないとどうなる?言語化できるとどうなる?
差別化されない作家として記憶に残る
自分でも軸がブレる制作の方向性が見える
機会を逃す展示や販売のチャンスに強い
説得力がない信頼感・購入動機に繋がる