作家が「他人の作品を見ない」という選択は傲慢か?

「他人の作品を一切見ない」という選択肢

「たくさんインプットしてそれを自分のものにして出力してこそだ」
というのが通説かもしれませんが
アーティストの中には、あえて他人の作品を見ないという人がいます。

一見するとそれは「傲慢だ」「世間知らずだ」と思われがちですが、実はそうではありません。

それは、“ある種の人間”にとっては自己防衛であり、戦略的選択なのです。

実は筆者もペン画家として活動しています。
都内のギャラリーをめぐってたくさんの作品を目にしてきましたが
他作家の作品にはあまり興味がわかないタイプです。(ほかの方はどうなのでしょうか?)
美術館にもほとんど行きません。
インプットは大事なのは十分承知の上、
正直「自分の作品には及ばないな」と思ってしまうことがほとんどです。
とんだ世間知らずの高慢画家かもしれません(笑)

本記事では
あえて他人の作品を一切見ないアーティスト
の考え方をまとめていこうと思います。

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影響されやすい人、されにくい人

人には2種類います。

  • 他人の表現を見て、すぐに自分の糧にできるタイプ
  • 影響を受けた後、それを“自分のもの”にするまで非常に時間がかかるタイプ

後者にとって、「他人の傑作を目にする」という行為は、毒にも薬にもなりうるものです。
それは刺激であると同時に、自分の輪郭を一時的に溶かしてしまうリスクを孕んでいます。

たとえば、素晴らしい作品に圧倒されたあと、自分の筆が急に鈍ることはありませんか?
思考が乗っ取られるような感覚。
それを避けるために、“見ない”という決断を選ぶアーティストもいるのです。

見ないことは「怠慢」ではなく「訓練」である

美術の世界ではよく「たくさん観なさい」「インプットしないと成長しない」と言われます。
もちろん、それは一面の真理です。
しかし、だからといって「観ない選択=怠けている」わけではありません。

ある作家が10年間、誰の展示にも行かず、
ただひたすら同じモチーフ、同じ色、同じ手法を反復していたとしても、
それは**「自分だけの線」を探すための鍛錬期間**かもしれません。

知識や影響を遮断し、「無知」であることに耐える。
その静けさの中でしか育たない声もあるのです。

真の創造は、「無知」から育つ知性である

「真の創造とは、“無知”のなかで育てられた知性が、誰にも似ていない声を持つようになるプロセスである。」

まさに、この一文に尽きます。

無知であることは、必ずしも愚かであることではありません。

むしろ、「誰かを知らない」という状態に身を置くことでしか得られない、純粋な問いがあります。

それは、「他人がどう描いたか」ではなく、
「自分はなぜ描きたいのか」という、最初の火に戻る作業でもあります。

科学と芸術に共通する「孤独なオリジナリティ」

この姿勢は、実は芸術に限った話ではありません。
ある科学者はこう語りました。

「研究者として他人の論文を読みすぎると、オリジナルな論文が書けなくなる。」

科学の世界でさえ、インプットが過多になると、“自分の問い”を見失ってしまう。
これは創作と全く同じ構造です。

独学であること。孤独であること。
それは他人の道を真似せず、自分の道を掘る覚悟でもあります。

他人の作品に興味を持てない自分を責めない

私自身も、他の作家の作品を見ることはありますが、
正直なところ「これは好きだ!」と思えるものは、全体の1割にも満たないと感じています。

それは、「他の作品に興味がない」のではなく、
本能的に、自分の感覚と違うものに対して“遠く”感じているのかもしれません。

だからといって、自分に問題があるわけではない。
むしろそれは、「自分の感受性を守っている」証拠でもあるのです。

「似てしまう怖さ」から自分を守る

昨今はリサーチや引用、再解釈が推奨される時代です。
美術大学でも、必ずといっていいほど「過去の文脈を踏まえろ」と教えられます。

ですが、逆にそれが**「自分の輪郭をぼかす結果」**になってしまうこともある。
最初は「リスペクト」だったつもりが、気づけば「模倣」になっていた──
そんな経験は、表現者なら誰しも一度は通る道です。

だからこそ、“似てしまう怖さ”を避けるために、あえて孤立する。
それは臆病ではなく、誠実な決断なのです。

何も見ずに、自分だけの視点を耕すということ

真の創造は、時流と逆行することすらあります。
世の中が喧噪に満ち、情報が飽和しているとき、
何も見ない/聞かない/読まないというスタンスが、むしろ最も過激で、鋭利な態度になる。

自然の営みを観察する
感情の動きを記録する
世界の「揺らぎ」を自分の目で捉える

こうした、時間のかかる思索と観察の積み重ねこそが、
誰にも似ていない視点を育てるのです。

まとめ:静かな創造の強さ

他人の作品を見ないという選択は、傲慢ではなく、覚悟ある孤独です。

そこには、

  • 似たくないという強い意志
  • 自分を守るための距離感
  • 感受性を信じる誠実さ
  • 無知のなかで育つ知性

が、確かに存在しています。

周囲の流れに乗れなくてもいい。
「自分の声」が聴こえるまで、耳を澄ませ続ける。
その静かな創造こそが、実は最も深く、最も遠くまで届くのかもしれません。