線画制作においては、同じ動作を何度も繰り返しながら、ひたすら図形を描き込んでいく。その行為には、「無心に反復することに安堵を覚える」という感覚が伴っている。
制作過程では、「雲の形が何かに見える」といった錯覚——いわゆるパレイドリア現象——がしばしば生じる。これは、脳が曖昧なものに意味を与えようとする働きによるものである。そうした意味づけの衝動に抗い、限りなく必然性の希薄な状態(ほぼ偶然)を作り出し、自らの制御や認知の枠を超えた世界を表現することが、制作行為の主題となっている。



意味や成果ばかりが追求される現代社会において、このような姿勢は、ある種の静かな反抗とも言える。私たちは、「意味のある行為」しか許されないという無言の圧力に常に晒されている。そんななか、「意味を求めずに描く」という行為は、目的や効率を超えた営みそのものを肯定することであり、それ自体がひとつの救済となりうることを信じ制作する。
結果として現れる形態には、自然界の生成原理と呼応するようなフラクタル構造が多く含まれている。自然のパターンは、単純なルールの反復から成り立っており、そこに明確な意味や目的は存在しない。人間を含む生物もこの法則の例外ではなく、細胞分裂などの生命活動にも同様の構造が見られる。私たちが木目や炎の揺らぎに安堵を覚えるのは、それらが自身と同じ性質を持ち、自然と密接に生きていた時代の記憶を呼び起こすからに他ならない。
意味を排した制作行為は、人の内に眠る自然のリズムと無意識に同調し、結果として自然界に似た形態を生み出していくのである。

作品を通して、成果を求められ続ける社会において、たとえば石を意味もなく積み上げるような行為において、人はどこまで「無意味」でいられるのか。私たちはその「無意味」に、果たして価値を見出すことができるのか——そうした問いを、鑑賞者自身の感覚を通じて探っていただけたら幸いである。